본문 바로가기 주 메뉴 바로가기

検索

オススメ観光

0 ヒット数: 1912
解説者付きで朝鮮時代へタイムスリップ

光煕門ムーンライトロード第1コース

光煕門の全景

中区には史跡第10号の光煕門があり、ソウル漢陽都城など文化遺産をたどる4つの文化遺産探訪コースが体験できる。目まぐるしく変化する都心にいて、ダイナミックな朝鮮時代の歴史物語を探る第1コースは、歴史から宝物を探すような喜びを感ることができる。詳しい解説付きの旅が無料だなんて、人にはちょっと教えたくないと思うはず。歴史がこれほど面白いものだったのか、と思える一押しのコースをオススメしたい。

地図エリア

2.1km、180分
  • 1興仁之門(東大門)
  • 2五間水門(五間水橋)
  • 3二間水門
  • 4東大門デザインプラザ(DDP)
  • 5(旧)ソ産婦人科(隣の城郭跡)
  • 6光煕門
  • 7光煕門壁画通り
  • 8ヒョニャン館(光煕門聖地)
  • 9屍躯門市場跡
  • 10鍛冶屋街
  • 11東活人署跡
  • 12巫堂川(巫堂峠)
興仁之門(東大門)

興仁之門(東大門)

興仁之門の夜景 A

A興仁之門の夜景

  • 位置ソウル特別市鍾路区鍾路 288 興仁之門
光煕門ムーンライトツアーの解説者 A
興仁之門の全景 B

A光煕門ムーンライトツアーの解説者

B興仁之門の全景

「興仁之門」という名称には「東を興し、虚を防ぐ」という、風水の理論に基づいた意味が込められている。朝鮮時代の漢陽都城の東の門、四大門の東にあるということから「東大門」とも呼ばれた。他は三字であるのに対し、「興仁之門」だけが四字になったが、これは弱い地気を高めるためで、「興仁」の字と「門」の字の間に「之」が入れられている。若者は、「東大門」といえばすぐ「ショッピング」を連想するものだが、ここは、名前からして歴史が感じられる場所なのだ。

五間水門(五間水橋)

五間水門(五間水橋)/h2>

五間水門. A

A五間水門

  • 位置ソウル特別市鍾路区鍾路6街
五間水橋 A
五間水門 B

A五間水橋

B五間水門

五間水門の前に立つと、解説者が突然1つ、クイズを出した。「朝鮮時代の歴史コースには、小学生のお子さん連れが多く参加します。それではここでクイズ!参加する小学生の中で、何年生が特に多いと思いますか。」正解は5年生。5年生の2学期の教科書に「五間水門」と「二間水門」のことが載っているからで、実物が体験できるよう親または先生たちに連れられてくるそうだ。五間水門は5間のアーチ型水門。清渓川(チョンゲチョン)の水流が城の中から外側へ流れ出る通路の役割を果たした。五間水門の前で、好奇心に満ちて輝く目をした子供が、何年生かという質問にやはり5年生だと答え、その場が笑いに包まれた。

二間水門

二間水門

二間水門. A

A二間水門

  • 位置ソウル市中区乙支路7街 2-1 東大門歴史文化公園
二間水門. A

A二間水門

二間水門に着くと、コースに参加した他の人の視線が5年生のその子に注がれた。微笑ましい表情で、まるで「勉強のためにちゃんと二間水門を見てお行き」と言っているようだ。あのクイズと5年生だという答えで、見ず知らずの者たちの間で和気あいあいとした雰囲気がつくられる。全くの他人同士が友だちになること、それが旅の醍醐味でもある。二間水門というものは、東大門と光煕門の間の城郭の下を流れた水流の、二つの水門を指す。南山から流れる支流が二間水門を通過し、清渓川へと合流した。

東大門デザインプラザ(DDP)

東大門デザインプラザ(DDP)

東大門デザインプラザ(DDP) A

A東大門デザインプラザ(DDP)

DDP. A

ADDP

DDP. A

ADDP

中区で心躍る最高の名所、東大門デザインプラザは、今更説明する必要がないほど広く知られている。旅行客から度々、東大門デザインプラザだけの解説プログラムの要望を受けることがあるという話を聞いた。それほどの人気スポットだということ。昼でも夜でも、一人でも大勢でも、どんなシチュエーションでも十分楽しい場所を、解説プログラムで参加するなんて、どれほど珍しい思い出になるか、期待でわくわくする。

(旧)ソ産婦人科 (隣の城郭跡)

(旧)ソ産婦人科 (隣の城郭跡)

(旧)ソ産婦人科 (隣の城郭跡) A

A(旧)ソ産婦人科 (隣の城郭跡)

  • 位置ソウル市中区乙支路7街 11-6 セハンビルの隣
 (旧)ソ産婦人科(隣の城郭跡) A

A (旧)ソ産婦人科(隣の城郭跡).

コース出発の前、コースの中に現代建築のように思える「ソ産婦人科」という名称が目を引き、少し不思議に思った。(旧)ソ産婦人科は、有名建築家の金重業(キム・ジュンオプ)の作品だという。しかし、解説を聞いてみると、コースの対象となるのは、(旧)ソ産婦人科ではなく城郭跡だった。この城郭跡は興仁之門から二間水門を経て光煕門へと続く城郭の一部と思われる。現在は、建物を支え、地盤を固める役割を果たしている。今は道路をわたって残っているが、朝鮮時代は光煕門と城郭を繋いだものだったのではないかと推定されている。

光煕門

光煕門

光煕門 A

A光煕門

  • 位置ソウル市中区光煕洞2街105-3
光煕門 A
光煕門 B

A光煕門

B光煕門

光煕は二字とも「ひかる」という字で、「光明の門」という意味を持つ。光煕門は漢陽都城の南小門の役割を果たした。光煕門の本来の機能は、都城への出入り口で、有事の時は軍事指揮所となった。それ以外にも特別な役割を果たし、水を外部へ出す水口門として、都城の中の遺体を外へと出すという屍口門)としての機能だ。漢陽都城の中で人が死ぬと、この屍口門を通じて埋葬地へと移された。その為か、城門の外には共同墓地が多く、巫(韓国語では巫堂、ムダンという)も多く住み、「神堂(シンダン)」、「巫堂(ムダン)」の付く地名が周辺に付けられたという。

光煕門壁画通り

光煕門壁画通り

光煕門壁画通り A

A光煕門壁画通り

  • 位置ソウル特別市中区退渓路 344
光煕門壁画通り A
光煕門壁画通り. B

A光煕門壁画通り

B光煕門壁画通り

東国(トングク)大学の美術学部・韓国絵画専攻の学生8人のプロボノにより描かれた壁画の町だ。暗い外観だった路地の壁に温かい色彩の絵が描かれ、町の雰囲気も明るく一変した。壁画の絵はゆっくり歩きながら見回れば、10分ほどで見終わる。壁画のそれぞれの場面について話をしながら歩く経験も、かなり面白い思い出になる。

ヒョニャン館(光煕門聖地)

ヒョニャン館(光煕門聖地)

 ヒョニャン館の内部 A

A ヒョニャン館の内部

  • 位置ソウル市中区光煕洞 2街105
工事中のヒョニャン館 A
ヒョニャン館の内部 B

A工事中のヒョニャン館

Bヒョニャン館の内部

ヒョニャン館(光煕門聖地)から巫堂川(ムダンチョン)までは、光煕門の別名の「屍口門」としての機能と関連がある。朝鮮後期、カトリック信者への迫害があった時に処刑された人々の遺体が光煕門の外側に埋葬されたという記録がある。カトリック教会ではこのことを忘れないため、光煕門の外側をヒョニャン館殉教聖地と定めた。ここでは毎週木金土日の午後3時にミサが行われる。

屍口門市場跡

屍口門市場跡

屍口門市場跡 A

A屍口門市場跡

  • 位置ソウル市中区茶山路33キルと青邸路22キルの交差点
屍口門市場跡. A

A屍口門市場跡

商圏があまり発達していない小さな市場が見える。ここはどのような場所だったのだろう。漢陽都城の人が死ぬと屍口門を通じて埋葬地へと運ばれたが、屍口門市場は埋葬地へと運ばれる通りだったという。朝鮮時代、多くの遺体が運ばれた歴史を持つ通りだといわれると、この静かな商圏が話を聞く以前とは違って見える。

鍛冶屋通り

鍛冶屋通り

鍛冶屋通り A

A鍛冶屋通り

  • 位置ソウル市中区新堂洞233-19、20
鍛冶屋通り A
鍛冶屋通り B

A鍛冶屋通り

B鍛冶屋通り

ソウル唯一の鍛冶屋通りが中区にある。最も活況を呈した1960~1970年代には約100ヶ所の鍛冶屋があった。その時期はソウルの建築ブームの時代で、本来、東大門運動場の近くにあった鍛冶屋では、建築現場で使われる鉄筋を切断したり曲げたりの作業がほとんどだったという。しかし、1980年代に入ると鍛冶屋通りが衰退の一途を辿り、1986年のアジア競技大会の時に都市整備の目的で、東大門運動場からここ新堂洞(シンダンドン)へと移されたという。現在、中区では3ヶ所の鍛冶屋のみ変わらず営業を続けている。

東活人署跡

東活人署跡

東活人署跡 A

A東活人署跡

  • 位置ソウル市中区新堂洞236番地と304番地一帯
東活人署跡。現在はテチュナムポチャという飲み屋となっている。 A

A東活人署跡。現在はテチュナムポチャという飲み屋となっている。

光煕門は遺体が運ばれた場所だったので、昔の医療機関の「活人署」が位置していた。活人署では身寄りのない病人の看護に当たったが、伝染病が流行ったり、特殊な状況が発生したりした時も救護活動を行った。近代の病院がつくられてから姿を消し、現在はその歴史が伝わっているのみである。

巫堂川(巫堂峠)

巫堂川(巫堂峠)

巫堂川(巫堂峠) A

A巫堂川(巫堂峠)/p>

  • 位置ソウル市中区光煕洞2街105-3
巫堂川(巫堂峠) A

A巫堂川(巫堂峠)

屍口門の役割を果たした場所だからか、この周辺には、昔から病気専門の巫や祭祀を行い占いをする「神堂」が多かった。現在道路が通るここは本来、川が流れ、巫がその周りに多く住んでいたので「巫堂川(ムダンゲウル、ムダンチョン)」と呼ばれた。中部消防署の裏の低い峠も、巫堂峠(ムダンゴゲ)と名付けられた。1960年末までは、ここは快子(ケジャ、袖のない戦闘服の一種)とナムオッを身にまとい、鼓とチャングのリズムに合わせて舞う巫の姿が頻繁に見られたというので、不思議な気持ちになる。

さて、いかがだったかな。毎日通る場所に隠れた歴史物語を探る旅、生きた歴史を発見する面白い経験を、中区でやってみよう。

  • 解説コース光煕門ムーンライトロード4コース / 韓国語
  • 申込人数4人以上 / 無料
  • お問い合わせ区庁・文化観光課 ( 02-3396-4924)

周辺情報

TOP