본문 바로가기 주 메뉴 바로가기

検索

オススメ観光

0 ヒット数: 1268
600年間ソウルを包み込んできた漢陽都城

漢陽都城

白凡(ペクポム)広場-崇礼門区間の漢陽都城.

朝鮮時代、太祖が首都を防御するために築いた城郭で、総長約18.2km、総面積約46万7922㎡。

4大門(東の興仁之門、西の敦義門、南の崇礼門、北の粛靖門)と4小門(北東の弘化門、南東の光煕門、北西の彰義門、南西の昭徳門)を設けた。世宗と粛宗の時に補修工事が行われたが、城郭の石の形を見れば、築造方法が異なるのでだいたい築造時期が推測できる。

TOP #05漢陽都城

  • 位置 光煕門:ソウル特別市中区光煕洞2街105
    崇礼門:ソウル特別市中区世宗大路 40 崇礼門
  • ホームページhttp://seoulcitywall.seoul.go.kr/
  • 地下鉄2、4、5号線・トンデムン・ヨッサムンファゴンウォン駅3番出口の向かい側
  • バス 幹線421、463、507 / 循環 05
興仁之門-駱山公園区間

興仁之門-駱山公園区間

興仁之門-駱山公園区間

興仁之門-駱山公園区間

太祖は「城郭の内外を厳しく統治し、国を固く守ることこそ、統治者が最優先すべき課題だ」と考えていた。そのため、北岳山(プガクサン)を中心に、駱山(ナクサン)、南山(ナムサン)、仁王山(イヌァンサン)の稜線に沿って丸く城壁を築いて漢陽を囲んだ。このようにして漢陽都城は朝鮮王朝の500年の歴史とともに歩んだ。漢陽都城の中には宮殿、宗廟、社稷、官衙、市場など様々な施設があり、王と多くの民衆が住んでいた。つまり、城郭そのものが漢陽を指すといっても過言ではない。

漢陽都城の「工事実名制度」の痕跡

漢陽都城の「工事実名制度」の痕跡

約18kmにも及ぶ漢陽都城の工事は、わずか98日で終わったという。しかも記録によると、計画した工事期間は1396年1月9日から2月28日までとなっている。真冬の、農業を営まない時期に城を築城しなければならなかったので、全国から夥しい人々を動員し、城壁を97の区間に分けて出身地域によってそれぞれ担当区間を割り当てた。城郭を歩いていると、銘文のある石が目につく。区間の担当地域がどこなのか示すことで、責任をもって工事を臨むようにしたのだ。

浮いたように挟まった石

浮いたように挟まった石

築造時期が異なることが分かる

築造時期が異なることが分かる

茶山城郭道。石の形で築城時期を推定することができる />
<p class=茶山城郭道。石の形で築城時期を推定することができる

城壁を詳しく見ながら歩いてみよう。同じ形で整然と並んでいるように見えるが、良く見るとそうでもないことが分かる。石の形も、構成も異なる。最初に築造された太祖の時と、補修工事が行われた世宗と粛宗、この三つの時代のものが目で見て区別できる。ほとんど手入れせず自然石を積んで、その隙間には小石を詰めて築いた城壁は太祖の時のものだ。世宗の時はある程度石を規格に合わせて削り、下は大きい石を、上に行くほど小さい石を積んだ。それから300年後の粛宗の時に補修工事がまた行われたが、この時は 5年にわたって四角く削った石を整然と並べて頑丈に積んだ。だから、城壁をみれば、いつの時代に積まれたものか、すぐ識別できる。

城郭の櫓なしの門。暗門、トキグル(うさぎの巣穴という意)とも呼ばれる

城郭の櫓なしの門。暗門、トキグル(うさぎの巣穴という意)とも呼ばれる

城郭に上ると、都城の内外を見下ろすことができる。現在は都城の外に多くの建物が見えるが、朝鮮時代はほとんどが田畑で、城内に比べ、あまり人が住んでいなかったという。世宗の時、都城の中には103,328人が、都城の外の四方1里の中には6,044人が住んでいたという。

4大門の一つの崇礼門

4大門の一つの崇礼門

4大門の一つの崇礼門

4大門の一つの崇礼門

漢陽都城には城へ出入りできる四つの大きな門の4大門と、小さな門の4小門があった。現在はその位置から4大門を東大門、西大門、南大門などと呼ぶが、当時はそうではなかった。朝鮮時代、建国理念の儒教が重視されていたので、「仁義礼智」から一文字ずつ取って仁を興すという意味で「興仁之門(東大門)」、義を敦くするという意味で「敦義門(西大門)」、礼を崇拝するという意味で「崇礼門(南大門)」と呼んだ。北大門の「粛靖門」は本来、「智慧を弘める」という意味の「弘智門」にしようとしたが、民衆が賢すぎると統治しにくいということで「厳粛に安泰にする」という意味で「粛靖門」と名付けたという。4大門の内、西大門の敦義門だけが現存しない。日本の植民地時代、我が国を近代化させるという名目で漢陽都城を多く破壊したが、敦義門も競売にかけられ、わずか205ウォンで売られ、撤去された。痕跡すら残っていないことがより一層悲しく感じられる。

4小門の1つの「光煕門」’

4小門の1つの「光煕門」

茶山城郭道の風景

茶山城郭道の風景

漢陽都城ツアーで見かけた鳥

漢陽都城ツアーで見かけた鳥

4大門の間に4小門がつくられたが、興仁之門と崇礼門との間に光煕門を、崇礼門と敦義門の間に昭義門を、敦義門と粛靖門との間に彰義門を、粛靖門と興仁之門 との間に恵化門を建てた。4小門のうち、昭義門は今は存在しない。昭義門は光煕門と同様、遺体を都城の外側に運ぶための門だったが、これも敦義門と同様、日本によって消失してしまった。今は石碑のみ寂しく残っている。長い漢陽都城道を歩いていく時は、厳しい歴史の渦の中で消えてしまった大切な文化財のことを思うと悲しくなるが、忘れてはならない大切な祖先の生き方をも学ぶことができる。

 漢陽都城解説者付きプログラム

漢陽都城解説者付きプログラム

漢陽都城は4つの区間の彰義門~恵化門、恵化門~光煕門、光煕門~崇礼門、崇礼門~彰義門に分けて歩くことができる。ソウルの中心の南山を含む光煕門~崇礼門区間を歩いてみた。現代的なビル街から出発したが、いつの間にか過去と自然の間に包まれていることに気づいた。

東大門歴史文化公園の二間水門

東大門歴史文化公園の二間水門

東大門歴史文化公園の城郭道

東大門歴史文化公園の城郭道

コースの始まりの光煕門は4小門の一つで、興仁之門と崇礼門の間にある。五間水門、二間水門からも近く、水が出ていく門という意味で「水口門」とも呼ばれたが、都城内の遺体を外側へ運ぶ用途で使われるようになり、「屍口門」とも呼ばれるようになった。生者と死者が別々な門を利用したということに驚きを感じた。道路脇に建つ門を無心に見てきたが、その話を聞くと、光煕門がなんとなく悲しい雰囲気に包まれているように思われた。

光煕門壁画街の住宅街で見かけた城郭の跡

光煕門壁画街の住宅街で見かけた城郭の跡

茶山城郭道区間

茶山城郭道区間

解説者が石の痕跡について説明している

解説者が石の痕跡について説明している

過去と現在が共存する城郭道周辺の風景

過去と現在が共存する城郭道周辺の風景

光煕門を過ぎて新堂洞(シンダンドン)住宅街を歩いていくと、向かい側に韓国初の体育館、奨忠体育館が見える。奨忠体育館からバンヤンツリーホテルの近くまで城郭が続くが、この道は城郭の内側と外側、両方を歩くことんができるので、好きな方を選んで歩いてみよう。歩いていくと、急傾斜で歩くのがきつくなるが、ゆっくり休みながら登ってみよう。高い城郭から遠くまで眺望すると、ソウルが、過去と現在の共存する場所だということを実感することができる。

過去と現在が共存する城郭道周辺の風景

過去と現在が共存する城郭道周辺の風景

茶山城郭道

茶山城郭道

茶山八角亭を過ぎて優秀景観眺望名所に到着

茶山八角亭を過ぎて優秀景観眺望名所に到着

茶山八角亭を過ぎて優秀景観眺望名所に到着

茶山八角亭を過ぎて優秀景観眺望名所に到着

自由センター

自由センター

松林探訪路と城郭道

松林探訪路と城郭道

松林探訪路と城郭道

松林探訪路と城郭道

光煕門~崇礼門区間はかなり長いが、長い道が不便で大変なので、朝鮮時代の人はここに南小門という門をつくり、都城を行き来したという。その痕跡がまだ残っている。バンヤンツリーホテルからいきなり城郭道がなくなっても、戸惑うなかれ。落ち着いて国立劇場をめがけて下りていこう。近くには独特で荘重な建築の自由センターも見ることができる。建築家の金寿根(キム・スグン)の作品だ。城郭道に沿って南山の頂上まで登らなければならない。この区間は様々な形で築かれた城壁が見られ、補修が行われたことが分かる。まるで、朝鮮時代の建築史博物館のような場所だ。

城郭道と上から眺望したソウルの風景

城郭道と上から眺望したソウルの風景

城郭道と上から眺望したソウルの風景

城郭道と上から眺望したソウルの風景

 Nソウルタワーと八角亭の夜景

Nソウルタワーと八角亭の夜景

展望台からの風景

展望台からの風景

 展望台から見渡した漢陽都城・城郭道

展望台から見渡した漢陽都城・城郭道

 展望台から見渡した漢陽都城・城郭道

展望台から見渡した漢陽都城・城郭道

木々の茂る都城の城壁を歩いていって、とうとうNソウルタワーに到着。ここには八角亭や南山狼煙台もあるので、ゆっくりソウルを見下ろしながら景色を堪能して休んでいこう。

 南山狼煙台

南山狼煙台

ソウルの中心点

ソウルの中心点

国師堂跡

国師堂跡

白凡広場の金九先生像

白凡広場の金九先生像

安重根義士記念館

安重根義士記念館

八角亭の近くで国師堂跡と標示された石碑を見ることができる。南山は本来、木覓山と呼ばれていて、太祖の時に山神の木覓大王を祀る祠堂を設置して祭祀を行い「国師堂」と名付けた。しかし、日本は植民地時代に国師堂を壊し、朝鮮神宮を建てた。韓国民族の悲しい歴史が伝わる場所なのだ。そこから下へ行くと白凡広場と安重根(アン・ジュングン)義士記念館がある。彼らの崇高なる生き方を忘れないようにしよう。もう少しで、崇礼門が見える。

漢陽都城[白凡広場-崇礼門区間]

漢陽都城[白凡広場-崇礼門区間]

崇礼門の夜景

崇礼門の夜景

 大韓商工会議所の横の漢陽都城・城郭道

大韓商工会議所の横の漢陽都城・城郭道

今も鮮明に思い出す。500年の歴史を持つ国宝第1号が我々の目の前で5時間でほぼ全焼した。そして5年間の復元工事の末、2013年には再び復元された姿を見ることができた。これからは文化遺産の大切さとその意味を心に刻み、保存していかなければならない。

漢陽都城

漢陽都城

漢陽都城は朝鮮時代の500年の歴史を持ち、600年以上、韓国民族とともに歴史を歩んできた大切な文化遺産だ。朝鮮時代の人々は、晴れやかな日は漢陽都城を一周し、美しい景色を鑑賞するという「巡城遊び」を楽しんだという。我々も過去と現在が調和する景観を楽しみながら城郭を歩き、そこから伝わる物語に耳を傾けてみよう。美しい自然と今まで知らなかった歴史に魅了されるはずだ。

周辺情報

TOP